名品にふれる時

下手の横好きで、ときどき将棋をさすが、この正月に分不相応ながら新しい将棋駒を
手に入れることができた。それは駒づくりの名人といわれる木村文俊(ふみとし)さんが、
伊豆七島の御蔵島(みくらじま)のツゲ材を数年間乾燥させて刻んだ金竜書体の盛上げ駒である。
輝くばかりの光沢、一様に流れている木目の文(あや)……。何かと疲れた時、落ち着かない時、
思索の行き詰った時など、手にとってじっと眺めていると、次第に心がなごんでくるのだから、
まことに妙である。
つまみあげて盤に打ち下ろした時、やわらかい音が響くにもかかわらず、いくらたたきつけても、絶対にこわれないその硬さ……まさに美術品である。
いったい美術品を鑑賞するだけの眼は私にはないが、いくら素人でも、
よい作品に接すると心にふれるものを覚えるのは当然だ。「吹けば飛ぶような将棋の駒」でも、
一心不乱に彫りこんだ真心は、ビンビンと伝わってくる。機械で大量生産した駒と比べて、
そこには大変な違いがある。
 絵画、彫刻、陶器、磁器、その他、みんな同じことだと思う。込められた一心は、
自ずからその作品ににじみ、また輝く。それを眺めたり、触れたり、
また聞いたりしているうちに、それらの作者の心のままに、こちらの心が律動(リズム)を
奏でてくる。一口にいえば「よい気持ちになってくる」、それでよいのだと思うのである。
 人によって鑑賞の度合いの浅さ深さとか、批評の基準のちがいというものは、いろいろとある。しかし世に永く名作とか名品とか評価されてきたものは、一般にそれらに接することによって、
私たちの心が、いかほどか高まり、また美しくなるものである。
はっきりと言って、私たちの心の中には、醜悪なもの歪曲されたもの、
さらには邪悪とまで考えられるようなものが、かなりひそんでいる。
「私は悪いことは少しもしていません」といっても、その人の心の中を遠慮容赦なく暴いて
ゆくと、人を不当に責めたり、恨んだり、そねんだり、あるいは自分自身を痛めつけたり、
粗末にしたり……というような事実が出てくる。
少なくとも私自身は、多分にそういうものを感じて、何とか、より一歩向上してゆこうと
つとめている。そうした面からいっても、名作とか名品とか、立派なものに接する時、
そのもののもつ、よさや立派さがこちらの心を、よりよく、より立派にする機会を与えて
くれているように感じられるのだ。
 といっても、もちろん高価な食器を使え、絹のフトンに寝るべし、衣服は最高級品を着用せよ、などと主張しているのではない。
 私たちにできるのは、工夫して暇をつくり博物館や美術館また展覧会場などにおもむいて、
そうしたものの鑑賞をすることである。虚栄のためでも、逃避のゆえでもなく、自己自身の向上のためである。
「向上」といえば、固苦しく響くかもしれないが、人生はすべて向上を目指すのでなければ無意味であると、私は確信している。低下の道はたどりたくない。「死してなお向上」である。