喜働の精神が新しい日本を創造する

働くことにおいて利他の精神は必要不可欠ですが、
この精神を顕著に表わしたものに奉仕活動があります。
皇居と赤坂御用地で清掃活動などを行なう「皇居勤
労奉仕」があります。諸手続きを経た多くの方々が全
国より参加し、戦後六十七年間継続されています。こ
の奉仕活動に参加した会友もいることでしょう。
始まりは、宮城県栗原郡の青年団員の純粋な日本を
愛する心と、申し訳なさから発した行為でした。終戦
直後、国会議員の秘書官をしていた長谷川峻氏が郷里
の栗原に帰った際、皇居周辺が荒れ果てているという
話をしました。それを聞いた青年たちは、皆で相談し、
戦火で荒れてしまった外苑の草むしりなどの清掃活動
をさせていただこうと決意します。
終戦直後の昭和二十年十一月、青年団の代表として
皇居の坂下門を訪れた鈴木徳一氏と長谷川氏は、宮内
庁の職員に青年たちの思いを伝えました。職員は二人
の話を聴いて感激します。
翌月の十二月八日に第一陣の奉仕団約六十名が、交
通機関もままならない中、約二十キロ近く離れた寄宿
舎から皇居に通いながら、すべて手弁当で四日間の奉
仕作業を行なったのです。
戦後アノミーが広がり、自分が生きることに精一杯
だった当時は、GHQが目を光らせ、皇室のために奉
仕する行為について逮捕される可能性が大いにありま
した。それを覚悟していた団員は、宮城を離れる際、
親類と水杯を交わして出発した人、〈皇居をきれいに片
付けないと日本が立ち直れない〉との意志で参加した
人など、様々な思いを抱いて上京したようです。
経緯をお聴きになられた昭和天皇は一言話をしたい
と、奉仕活動をする団員のもとに突然に訪れ、三十分
ほど郷里や道中のことなどを質問されました。御会釈
が終わって、感極まった団員たちは陛下が踵を返しお
帰りになる後姿に向って「君が代」を誰ともなく唄い
始めます。陛下は足を止められ、皇居に響く歌声をじ
っとお聴きになられていたそうです。その後、全国に
この話が伝わり、現在のような皇居勤労奉仕へと繋が
っていきました。
青年たちの行為は一面、自身を含め親類にも影響が
及ぶ可能性のある無謀な行為かもしれません。しかし
戦後の人世を鑑み、せずにはいられないとの情念から
発した行為は、多くの人に感動を与え、日本再建の一
歩を進むきっかけの一つとなったのです。

働きには様々な段階があります。①イヤイヤ・ダラ
ダラ、惰性、打算のレベル、②ガンバリズムに陥り、
独りよがりのレベル、③働く喜びに溢れているレベル、
④働かずにはいられないという感謝報恩のレベル、⑤
仕事そのものが楽しく喜びに溢れ遊んでいるのと同じ
感覚のレベル、です。①②は働き手の心が自分本位の
思考傾向があるのに対し、④〜⑥は相手優先の思考傾
向であり、利他の精神が強いという違いがあります。
倫理運動の創始者・丸山敏雄は働く人の心を、次の
ように記しています。
己が何も求めずに働くとき、その働きに応じて報いら
れるということが倫理の原則であること、が明らかにさ
れた。故にこれまでの世の勤労者の働きとその心構えは、
まるでさかさまになっていたのである。それは、飽くな
き己の欲望のために働いていたのである。そして「働け
ど働けど我が生活楽にならざりじっと手を見る」ことに
なったのは、当然である。
利他の精神に溢れた奉仕の精神を日常生活や仕事に
活かし、感動と喜び溢れる環境を創造していきたいも
のです。この輪の広がりこそ、日本が創造的に変わる
大きな原動力となるのです。