受けた恩の有難さに気づく

ようやく出た便を、両手に捧げて泣いている妻の姿をうつろに知った時、私は起き上がれぬまま、グッと熱いものが胸にこみあげてきて、両眼から涙がしきりに流れ落ちるのを、どうすることも出来ませんでした」
これは、脳軟化症を患い、排便が出来ずに、生命の危機に見舞われたA氏の言葉です。
その時、氏は六十二歳。妻の愛情がどんなに深く、有難く尊いものであるかを思い知らされました。
医者も諦めた病を、氏は見事に克服し、八十二歳まで元気に働きました。「妻は観音様です」という氏の言葉からは、生死の淵に立って知る妻の愛情への感謝と、謙虚さが伺えます。
また、A氏の体験は、排泄という日々の当たり前のことに対する見方を変えてくれます。食事と同じように、排泄も尊い生命の営みです。命を支えてくれる食事に感謝するのと同じように、トイレでたとえ一瞬でも、その有難さに思いを至らせ、感謝する気持ちを持ちたいものです。

謙虚とは、辞書によれば「控え目で、つつましいこと。へりくだって、素直に相手の意見などを受け入れること」(『大辞泉』)とあります。増上慢的な発言や行動は、それだけ他人を不愉快にさせ、人の善意を傷つけ、社会の調和を乱してしまいます。
また、慎ましさに内包される素直さがなければ、経営者としての学びを得られず、事業運営上の必要な情報も的確に捉えることが難しくなるでしょう。
「今週の倫理」の今月最初の号(八六二号)には、寄附の話が登場しました。「寄附をしても自分の名前が出ていないと不愉快に思ったりすることはありはしないか。その底に他人に誇る気持ちがあるのではないか」と述べられています。
本来寄附は、善意で行なわれるもので、自分の善行を世に示すためのものではありません。とはいうものの、つい善を誇りたくなるのが人の常であり、頭では分かっていても、謙虚さを失ってしまうのが人間でしょう。
A氏のような大苦難に見舞われなくても、日常の中で、どうすれば謙虚な心持ちを保っていけるか。その鍵は、してもらったことに気づけるかどうか、にあります。
「内観」と呼ばれる心理療法には、両親やお世話になった人との関係の中で、「自分がしていただいたこと」「して返したこと」「ご迷惑をお掛けしたこと」を年数を区切って細かく調べる(思い出す)段階があります。
初めのうちは、「して返したこと」ばかりが出てくるのですが、次第にほかの二つを思い出していくにつれて、治療の効果が上がってくる、とされています。
自分のしたことを誇りたい気持ちは誰にもありますが、どれだけ多くの「していただいたこと」に支えられ、「ご迷惑をお掛けしたこと」を許されて生きてきたのか、その恩に気づき、有難さをかみ締める時に、謙虚に生きる道が開かれるのではないでしょうか。