あらゆるものに学びがある

剣豪・宮本武蔵は、兵法書『五輪書(ごりんのしょ)』において「兵法の利にまかせて諸芸諸能の道を学べば万事において我に師匠なし」と記しています。

師を持たず、生涯、自己鍛錬を貫いてきた武蔵ならではの言葉ですが、裏を返せば、日常のあらゆるもの、天地自然すべてがわが師であると解釈できます。武蔵はあえて逆説的な表現を用い、「日常のあらゆるものがわが師である」と説いたのです。

武蔵の思想・哲学に感銘を受けた小説家の吉川英治は、「吾以外皆吾師」と表現して、これを座右の銘としていました。自著『新書太閤記』の「大坂」という章では、秀吉の生き様を以下のように表わしています。

秀吉は貧しい身分で育ったため、学問に疎く、教養はまったく持ち合わせていませんでした。しかし逆境で育ったこともあり、常に、接する人から何かを学び取るという習性を備え持っていました。

秀吉が出世をしていく過程で、生きる知恵や知識を学んだのは、時の上役である織田信長一人ではありませんでした。どんな凡下な者でも、自分より勝る何事かを一つは見いだして、それをわがものとして、戦国の世を生き抜いていった、と言われています。

まさに「吾以外皆吾師」の生き方を貫いたのが秀吉であり、秀吉に投影させた吉川英治自身の人生の処し方だったのです。

人はこの世に生を享け、純粋無垢な心を持って、見たもの、聞いたもの、感じたものを素直に吸収していきます。その間、いのちの師である両親から生育の恩を、人生の師である学校の先生や多くの人から愛育の恩を受け、今日があります。

そうした受けた恩に対して、私たちはどのような働きで応えているでしょう。物や情報が溢れて、求めずとも与えられることに慣れてしまっている私たちは、無意識のうちに受身の姿勢が身についていないでしょうか。

受身の姿勢が身についてしまうと、考えることが億劫になります。困難や課題に直面しても、「誰かが助けてくれるだろう」と、他人任せになりがちです。

そして、「やってくれて当たり前」という心が芽生え、謙虚な心や報恩の姿勢が喪失し、感謝の念が希薄化するという悪循環に陥ってしまうのです。

積み重なった幾百千乗の恩の中で生かされているのが私たちです。今一度自らを振り返り、受身の姿勢を払拭して、自ら求める姿勢に心の舵(かじ)を切り替えましょう。

倫理運動を創始した丸山敏雄は、晩年に「宣(せん)」と題した三カ条の誓いを立て、森羅万象あらゆるものをわが師と見立てました。

一、我 萬人のしもべとならむ

一、我 萬物の友とならむ

一、我 萬象の讃嘆者とならむ

この世のすべては、自ら求めれば何事も教えてくれないものはありません。「すべてはわが師である」という謙虚な心で、企業繁栄の基を創り上げていこうではありませんか。