『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』

木野 親之著
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
―この時代をいかに乗り切るか―

6月25日 「美と醜は表裏一体」

「美と醜は表裏一体、美の面に捉われ、半面の醜を
責めるに急なのは、真実を知らぬ姿である」
この考え方は、松下幸之助哲学の神髄です。
一言一句頭に入っています。
私たちは、対立や比較でものごとを見がちです。
そこから、ねたみや憎しみが生まれ、争いごとへと
つながるのです。
合掌すると、右も左もなくなり、闇から光への道が
開かれるのです。

『吉田松陰一日一言』

川口雅昭氏編  致知出版

『吉田松陰一日一言』

―魂を鼓舞する感奮語録―

6月25日 「君子は渇すとも」 

 

君子は渇すとも※盗泉を飲まず、志士は窮すとも溝壑を忘れず。 安政4年8月「※溝三郎の説」

【訳】

心ある立派な人は、どんなに困っても悪いことは行わない。志のある武士は困難な状況に陥っても、正しい道を守るためには、死んでも棺桶がなく、溝や谷間にそのま
ま捨てられるくらいのことを覚悟するものである。

※1山東省泗水県にある泉。孔子は(盗泉という)悪い名前からその水を飲まなかったという。不義の意に用いる。

※2萩松本村の商家の子。高弟 吉田栄太郎稔麿が松陰に託した子。

待つ時間を活かす

歯の治療にゆく。患者が大勢いるので、待たねばならぬ。
覚悟はしてきたものの、用事は山ほどあるので、いらいらしてくる。時計を見上げては、まだかまだかと気をもむ。ようやく自分の番。だがものの数分とかからぬあっさりした診察。がっくりしたような気持ちで帰途につく。
以上は一例であるが、人生には待たねばならぬことがずいぶんとある。乗りもの、見せもの、売りもの(買いもの)……、順番や時機やチャンスや、そのほか数えあげてみると、きりがないほど待つ時間が多い。人生の五分の一ぐらいは、何やかやで、待って暮らさねばならぬのではないか。
もっとも成功するのを待つとか、死を待つとかいう問題を加えると、人生の大半、いやそのすべてが待つ時間だともいえる。死を好んで待つ者はいないだろうが、じつのところ、みな墓場に行くのを待っているのだ。

待つ時間は、わがままを捨てる稽古のときである。急患でないかぎり順番が来なければ歯の治療はしてくれないのだから、いかにジタバタしたところで何の役にもたたぬ。その間、何か為になることをやっておればよい。それを辛抱とか、我慢とかするのはおろかである。では何をやるのか。
待っている時間というものは、すくなくとも自分の時間だ。本を読む。考えごとをする。何でも自分の勝手にできる。座禅をくむつもりになったらどうか。腰かけていようと立っていようと、とにかくこの時間を十分に利用して、生活プランの再検討をするなり、明日のしごとの段どりを練り直すなり、フルに活用してはいかがか。それができなければ、無念無想になる稽古でもしたらどうか。
あれこれと生じてくる雑念を、もう一歩高い立場で、よく見つめる。なぜ、そうした雑念がおこってくるのか。今自分がもっとも気にしていることは何なのかなどと反省してみる。金がほしいと思っている。では、どうしたらもうけることができるか。逆に節約できるものはないか。こうしたことは雑念とはいえないかもしれないが、改めて検討してみるのもよかろう。
さらには数歩すすんで、「いつまでもその時が来るまで待つ」という強い精神を養うチャンスだと、よろこび勇むことはできないか。ここに、わがままを捨てる稽古の意義があると思い直すことはできないものか。
人は誰でも死を待つ身なのである。いつかは死なねばならぬ。おぎゃあと生まれたときから、自分の死を待ちながら、生きているのがお互いだ。死に急ぐ必要もない。だが死について、人間はその待つ時間を、なんとかしてひきのばそうと努力する。皮肉なものだ。
平均寿命が伸びたといっても、百年も二百年も伸ばせそうにない。だから死を待つ自分として、それまでの生の時間をいかに活かすかというのが私たち共通の問題である。つまり、いかに充実して生きるかである。

『吉田松陰一日一言』

川口雅昭氏編  致知出版

『吉田松陰一日一言』

―魂を鼓舞する感奮語録―

6月24日 「風化を起こさんと欲す」

 

今諸君と松下村の風化を起こさんと欲す。宜しく此の語を以て令甲となすべし。遺忘することなかれ。  安政3年6月10日「講孟劄記」

【訳】

今、私は諸君と一緒に我が松下村を徳によって教化しようと思う。であるから、この言葉をして、我々の掟の第一条としよう。忘れてはいけない。

『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』

木野 親之著
『松下幸之助に学ぶ 指導者の365日』
―この時代をいかに乗り切るか―

6月24日 「死を恐れるな」

「死を恐れるな、恐れるのは死への準備のないこと
である」。この言葉は私の頭から一度も放れたこと
はありません。

幸之助は、「僕はいつでも、店を閉める覚悟で、頭を
下げ下げやってきた」と、話していました。
そのために、ダム経営、無借金経営が生まれたのです。